昭和五十六年五月十八日 朝の御理解
御理解第三節「天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所其理知らず方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受け居る。今般生神金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ末々まで繁昌致す事、氏子ありての神神ありての氏子上下立つように致す。」
天地金乃神様の願いがここに結集されておるという感じの御理解ですよね。神様と人間とがあいよかけよでお礼を言い合いながら、拝見合いながら幸せな神も助かり氏子も助かり立ち行くそういう道を願って居られます。これが神様の願いなんです。
その為には、その前半であります所の天地金乃神の申す事はと仰せられるように天地金乃神様の、云うならば親神様のお心が本当に分からなければならない。お心が分かると同時に今迄私共の思い違いであった、考え違いであった所を改め分からせてもらい改めていかなければならない。そこまで、ここまでを私共が本当に分かるという事。
天地金乃神様の云うならばお心という、天地金乃神と申す事はという事ね、その天地金乃神様と申される方はこいう方なんである。
そして私共の今迄考え違いであった事、それを例えば日柄方位にお例えになったり、又は神仏の宮寺、その家宅、氏子の家宅ですらも実は神の地所であると、一切が神様の御物であるという、神様の御働きの中には氏子を苦しめようとか、難儀にしようというような思いはさらさらない。そういう云うなら御内容を先ずは分からなければならない。
そして神様のそこが分かった所から云うなら願う氏子におかげを授けて下さり理解申して聞かせて下さるという事は、どうでも神と氏子とがあいよかけよで立ち行き、云うならば合楽世界に住みたい、住まわせたいという神様のこれが願いなんです。ですからそこん所のおかげを頂かなければならんというのでございます。
昨日は合楽会でございましたから、佐田先生が司会を致しました。私は皆さんにまあ昨日から一昨日からピースご飯があずき御飯になったというあの話を聞いて、又昨日佐田さん所にその御赤飯になったのが少し残っておったそうですから、小さいパックに入れて持って来て見せてもらいましたが、全く誰が見てもお赤飯です。しかも伊万里の竹内家、久留米の佐田家にそういう事がしかも同じ日に同じ朝にあったという事なんかこりゃあただ事ではない。
昨日御祈念の後に福岡の秋永英治君が参拝してまいりました。今朝方からお夢を頂いたのに、沢山あずきを炊いておる、そのあずきの中に葱のみじん切りをいれておるというお知らせと思われるお夢を頂いたというお届けがあった。それやらこれやら思い併せてみてから、私はいよいよまあ思うのでございますけれども、そげな馬鹿な話があるもんか、ピース御飯が赤飯になるなんてと、それこそ今の金光教に人達ですらもそれをおかしい、合楽はそんな事言うから間違っとるという風に言われるに違いないという程しに不思議な事なんです。その事についてどう皆その事を信じられるかといったような事を質問致しまして会が始まりました。
佐田先生が一番初めの挨拶の中、挨拶というがお話しの中に申しておりましたが、白神先生という教祖の御時代の近藤、白神、佐藤と云うならば教祖の御信心をその三つの力で、いろんな意味でまあ云うならば三羽烏的なちいうかね、御信心をなさった偉い先生方なんですが、その白神先生の所でその起こった事がですね、私も昨日初めて聞いたんですけども、或る信者の所で大豆が小豆に変わったとい事があったそうです。だからその話だけはそんな事があっただろうかと思いますけれども、なら合楽であったここ二、三日のお話しの中からそういう事があったという事を聞くと、はあやっぱそういう事もあるんだなあとその裏付けになるような話をして昨日の話が始まり合楽会が始まったんです。
本当にまあそれを信ずる信じないは別としてただしこういう事は言えるねというてまあ話した事ですけれども、合楽に沢山な御信者がありますけれども、もし神様がその合楽の御信者の中で神様が赤飯を炊いてお祝いをしたい程しに思われる家庭家族というのがあるなら、どこどこだろうかという事であった。
皆さんどう思いますかね。やっぱり伊万里の竹内家と久留米の佐田家二軒だけじゃなかろうかと思います。熱心な信心を頂いておるという人はありますよまだ沢山。けども一家を挙げて今日の御理解の前半の所を、天地金乃神と申す事はという所からね、日柄方位ばかり見てとか神仏の宮寺皆神の地所といったような事を本当にそうです、本当にそうですと親から子から孫までもそれを信じて分かっておるというという事なんです。先ずは、だから熱心に信心しておりますから、主人はそれを信じておるどころじゃなかばってん、家内がそれこそ今のそげなピースご飯が赤飯になるてんなんてんそげなこつがありますか、口には言わんでん心に思うとるごたる家庭ではもうだからそん中には入らん分け。選りに選ったら私は伊万里の竹内家と久留米の佐田家二つに絞られる。成る程神様は絶対である、間違いがないなあ、云わば二軒に神様の方が赤飯炊いて祝うて下さるような働きが起こったんだなあという事を感じました。ちょっと思うてみて下さい。佐田さん方の御一家の御信心ね、伊万里の竹内家の信心。昨日竹内のお母さんから電話がかかってまいりましたが、昨日の朝は朝参りが二十九名あったげな。どんなに考えてもばってん恐れ入ってしまう話があります。そして、皆が助かってる。そしてなら昨日英治君がね、昨日頂いたというお知らせ、小豆を一杯煮てだからこれにご飯があれば赤飯になるけれども御飯がない。しかも葱が刻み込んである。葱というのはまあここでいう云うなら先生といわれるような人達という事でしょう。秋永一家の事を思うと本当に皆が秋永先生、文男先生というふうにですよね、長男は徹先生、本当にお道の教師としておかげを頂いとる。そういう意味でならば伊万里の方も長男の正教さんがお道の教師、又は一人息子の恵介君が佐田家においてもお道の教師をまあ拝命しておる。そして一家を挙げてしかもこの御理解三節の今の前半の所を信用してないという人は一人も居らん。おかげ頂いたち云うたら皆がおかげ頂いたあと真から思う家族である。お父さんはおかげち云うばってんという者がおらんわけで、だからそういう信心、そういう家族の信心をいかに神様が求めておられるかという事を分かります。秋永家にもこれにもう一つ何かが今の両家の事からいうと何かちょっと足りない所がある。先生と呼ばれる人が一家一門の中に何人も居りながら、しかも秋永一家皆信心をしておりながら、どこにかちょっといわゆる御理解三節を信じておるかというと信じてない、まだ人間心一杯というような人達もそこここにあるという事。ね、
個人々の信心でならもっと素晴らしい信心をしとる人達が沢山ありましょうね合楽には。けれども一家を挙げてというなら結局よくよく考えてみるといわゆる竹内家と佐田家以外にはなかごとあるわけです。それに少しならあるのが秋永家にあるのじゃなかろうか、一家を挙げて信心はしとるけれど、どこか今日の御理解の前半の所をそうげすと信じられるという事になってくるとちっと危ない所があるわけです。
そして先だってからの御理解にありましたように、十里の坂を九里半上っても油断をしてはならんとおっしゃるでしょう。佐田家の云うなら合楽のまあ云うなら、ひな型のようなおかげを受けて、しかも一家を挙げて今も申しますような信心が出来ておるにも拘わらず神様はまあだ九里半上ってと言うのだから十里の坂を上りきらなきゃ安心じゃないというておられるのです。そこでそのそこん所がこんだ又後半の所になってくるわけです。これからなら佐田家とか竹内家が一家を挙げてどういう事にならねばならんかという事です。末々まで繁昌致す事、氏子ありての神神ありての氏子というあいよかけよの云うならば信心。まあこの頃申しました佐田家の場合は常持まではね、善導寺、勿体島、椛目、常持の所まではおかげ頂いとるけれども合楽世界には入ってしまうという事。
神様と氏子とが本当に合楽し合える、喜び合い、今日の御理解でいうと神も立ち行き氏子も立ち行くという世界。そこを云うならばこれから目指してゆくという所に後の後半の信心と今日の御理解があるわけです。
末々まで繁昌致す事、成る程今では竹内家にしろ佐田家にしろ繁昌一途を辿っておるというお家なんです。しかも一家を挙げてどれこれと例えばなら息子たちでも、息子の嫁たちでも、お父さん達はあげん熱心ばってんち、あげん言いなさるけれどもと、こと神様という事になったらそこ一本でまとまってしまう程しの内容を持っておるという事。もうこりゃあねえ、合楽にこれだけ沢山の信者が居るばってんそれが揃うとる所はそこだけですばい。見てみなさい、素晴らしかあと皆ね、けれどもそこまで足ろうとるという所はないでしょうが。だから、そこん所をこれからの願いとしていかんならんと同時に、ならばそこまでのおかげを頂いたら初めて云うなら、いよいよあいよかけよの世界、本当の合楽世界に住むという。末々までも繁昌致す事の為の信心。
一家を挙げて御神徳を頂く。そしてなら自分の家だけお徳を頂いたというのじゃなくて、そのお徳が神様の願いに応えられる所の信心になっていかなければならないという事。
私は昨日佐田さんの所からパックに入れて持ってみえたその赤飯、ピース御飯の赤飯ですよ、それを見せて頂いて本当にまあ神様のすさまじいというか、働きという事がです。 これはまさしく神様の方が祝うて下さっておるという感。教祖金光大神の御教の中に信心は赤飯炊いて祝うような心で信心せよと、こうおっしゃるね。心嬉しゅう、心楽しゅう、心有り難う、そういう心でくうっとした心やら、腹立たしい心やら、不安で心配でたまらん、いらいらしてこたえんという心ではだめだと、赤飯を炊いて祝うような心でとおっしゃるそういう心でなら信心が出来ておられるのは佐田家と竹内家だと、それを神様がご覧になってそれこそまあだ本当の赤飯じゃあないけれども、ピース御飯を赤飯に見立てた位の所のじゃあるけれども、神様が祝うて下さっておる、喜んで下さるという事が分かる。
そこでその両家とてもこれからの信心の目指しというのは、末々までも繁昌致す事の為の信心。それは合楽理念に基づくいよいよ神も助かり氏子も立ち行く交流の世界が願われ、求められるわけです。それにいわゆる英治君の昨日の神様からのお知らせ、丁度その三日間その話が続いてですね、いやが上にでもそれを信じんわけ、信じない、そげなこつがあるだろうかと思う人にでも信じさせずにはおかんという神様の働きを尊いと私は思います。 だから本当に自分たち一家の上にもそういう願いを込めていよいよ信心が出来、はあ神様のおかげというたら皆が本当に一家中が感じられる信心、云うならばそこが云うならばどういう事かというと前半の所、天地金乃神様、天地金乃神様と申す事はと今まではその神の大恩も知らない本当の神様も知らない者ばかりであった。それを分からせて下さろうとする、又思い違い考え違い、自分のものでもないものを自分のもののように思うたりね。日に善し悪しの日があるような、考え違ったご無礼な考え方、日柄方位ばかり見てといったようなものがさらさらなくなって、ここに神様が言うておられる事が信じられるという所が先ず前半。後半が神と氏子が一緒に助かっていきたいという、しかもそれは子孫までもそれが続いていくようなおかげを頂いてくれよという神の願い、それをここに切々と感じる。合楽でこれだけのおかげを頂いておりますけれども、そういう働きになってこられる内容を持っているのは沢山はない。
先ずは本気で一つ一家を挙げて勢を揃えた一つのレベルというかね、そこまでの信心が願われなければならんという事でございます。
そして云うならばどうでもその事、神様からお祝いを言われるような教祖の神様は神様から神が一礼申すとおっしゃる程しのその御信心をなさった。だから神様からお礼が言われる所までいかんにしても、神様が喜んで下さる、神様がお祝いをして下さる位な所の信心を頂いてそこから合楽世界へ向かって合楽の理念の理想と申しますかね。
神様と氏子とが拝み合うてお礼言い合うていける、しかもそれがお徳ともなって子にも孫にも伝わっていくような信心を私共がこりゃあまあ一生がかりで願うていき、おかげにしていかにゃならんと思いますね。 どうぞ。